江戸時代の梅のお花見

梅は昔から日本に馴染み深い花として知られています。今でこそお花見と言えば桜の方が一般的ですが、かつては花見と言えば梅を指すのが普通でした。庶民に花見が定着するのは江戸時代頃と言われています。今回は江戸時代の梅のお花見に焦点を当ててみたいと思います。


 
梅の花見は古くは奈良時代から始まり、当時の貴族の優雅な風習として定着しました。
そこから時代が下っていくと、お花見が次第に庶民にも楽しまれるものになっていきます。
江戸時代に入ると花見が庶民にも定着していきます。この頃になると、桜の花見が一般的になり、梅は通の人が好むものという印象に変わっていきました。それでも梅の名所も数々残っており、多くの庶民が春の訪れを楽しんでいました。
文政十年(1826)には江戸名所花暦という当時のおでかけ情報をまとめた冊子のようなものが刊行されています。その中には現在もある亀戸天神社(亀戸天満宮)やその近くの梅屋敷、百花園(向島百花園)、鎌田村梅園など、江戸の各地の梅の名所が紹介されています。
江東区亀戸にある亀戸天満宮は学問の神様である菅原道真が祭られており、現在も多くの梅の木が残っています。そこから500mほどの梅屋敷には「臥竜梅」が多くの方を魅了していたようです。枝が大きく垂れ下がっており、地を這うように伸びていた様子が竜のように見えたため、その名が名付けられたとされています。
多摩川の手前にある蒲田の梅園では東海道を挟んで両側に梅の花があり、多くの人に知れ渡りました。十二代将軍の家慶や十四代将軍の家茂は蒲田の梅屋敷を休憩の場としていたとされています。
当時のお花見の様子を描いた絵画を見ると、今と同じく、梅を観賞しながらお酒や食べ物を楽しむ姿も見て取れました。ただ、桜に比べると、派手に酒盛りなどをするのではなく、ほのかに香る梅の香りを静かに楽しむ場であったようです。また、お花見では女性の方は色鮮やかな着物をお召しになっていました。梅の花を観賞しながらおしゃれを楽しんでおり、現在のお花見にも通じる部分が増えていますね。
このように桜の花見が主流となってきた後も、梅のお花見がしっかりと文化として庶民に定着している様子が見てとれます。
また、旧暦の2月は如月という名称ですが、これとは別に「梅見月」という別名もあります。この時期には梅の花が咲き誇るので、それを楽しんで鑑賞することが一般化していたことを示しています。
 
このように江戸時代には桜が中心になったとはいえ、梅のお花見もまだまだ多くの人に楽しまれていました。皆さんも春の訪れを感じさせてくれる梅のお花見を楽しんでいきましょう。